ヒーリングWEB講義

 

 
 
 
 
 

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 ヒーラーの存在意義
 本で学ぶ、師から学ぶ
 伝授前に起こる浄化

ヒーラーの存在意義

ヒーラーは何のために存在しているのであろうか?
 
ヒーラーは世に苦しみを持つ人を癒す癒し手である。
肉体の病気、精神・心の病気など、または色々な心の苦しみ・悩みなどで人は苦しむ。
釈迦は世に生・老・病・死の大きく4つの苦しみがあると言った。
その苦しみは生きている以上は避けられるものではなく人生についてまわる。
その苦しみを如何にすべきか、なぜ人は苦しみのか釈迦は悩みすべての王位、財産、家族という一切のしがらみを捨て出家をし王宮を出た。
 
釈迦が長い修行の果てに導き出したその答えは悟りを啓くことであった。
悟りを啓き神と一体になること、人間の苦しみの元となる輪廻の軛(くびき)を脱することであった。しかし、それは容易なことではない。
 
現在は末法の世と言われる。
法が廃れた世の中である。
末法の時代は約1000年前にも訪れ、この世の終わりが来るという終末論が世を賑わし人の心を荒廃させた。
 
法と言うと法律か何かと思ってしまうかもしれないが、ここでいう意味はそれではない。
法とは悟りを啓くための意識のテクノロジーという意味である。
それはかつては極一部の寺社仏閣において伝えられていたが、今やそこにも存在はしていないと言われる。
末法の世とは悟りを啓こうにもその技法が失われてしまった混迷の時代という意味なのである。
その時代、人は神を見失い盲目の様に生きている。
神は存在するのだろうか、神なんていないのではないかと思う人がほとんどで、神のご加護を頂いて人生を歩んでいる人は本当に少ない。
どこまでも苦しみから抜け出せない厳しい時代と言える。
 
さて、ヒーラーの存在意義であるが、ヒーラーのもとには多くの苦しみを持つ人が訪れる。
そこでヒーラーはそのクライアントの苦しみが癒されるように神に祈りを捧げる。
その人に必要な神の力が働いた場合は、苦しみの元が浄化され痛みが消え病は霧消する。
痛みや苦しみ、病を癒して差し上げるのがヒーラーの役割と言える。
 
もっとも、それは確かなことだ。
ヒーラーは己の持つ最大の能力を発揮し、クライアントを癒してあげなければならない。
しかし、それだけではない。
 
より重要なヒーラーの使命は人の心を神に向けることである。
クライアントは病が癒えると、「なぜあれだけの痛みや苦しみがなくなったのだろうか」と思う。
「ヒーラーは手をかざしているだけなのになぜなのだろうか。」と。
 
その瞬間が大事な時だ。
ヒーラーは自分が癒したものではなく、神が癒したことをクライアントに伝えなければならない。
私の気(エネルギー)は自分自身の気を発しているものではなく、霊的背後より神の力を導き癒しをしているのです。私はヒーリング中あなたの病や苦しみが癒えますようにと祈っていたに過ぎません。本当の癒し手は私ではなく神なのです。」と。
 
クライアントはその時自分が高尚な存在の力を頂き病が癒されたことを知る。
そして感謝の思いが自然と沸々と湧いてきて神に心が向かうようになる。
 
昨日も腹膜のがんが検査でなくなったとあるクライアントさんから嬉しいご報告を頂いた。
彼女はまだ30才を過ぎたばかりの若いお嬢さんだ。
「こんなに早くがんがなくなるとは信じられない」と主治医に言われたそうだ。
 
「母が『先生に感謝しなさい』って、言っていました。」と彼女に言われ、「うん、ありがとうございます。でも本当は私が治したのではないのです。」と先に述べた説明をそこから始めた。
 
「結局、私がやったことなんて全体の5%位、あとは神のお力なのですよ。」
 
と言ったら「そんだけなんですか!」とたまげていたが、それで神の慈愛は彼女に通じたものと思う。
健康を取り戻し、彼女はきっと神に感謝の思いを持ちながら残りの長い人生を歩んでいくものと確信している。
 
このように人の心を神に向けること、これこそがヒーラーの真の使命・役割であり、存在意義なのである。
そのために神はヒーラーに力を貸して下さっている。
これを自分の私利私欲のために使ってはならない。

祈り
 
世の中にはカルマの法則があり、それが人生を支配しているとは度々私が触れていることであるが、大きくグッドカルマ(徳)とバッドカルマ(因縁・業)がある。
自分が人に働いた行為はそれ自体が1つのエネルギーであり、バランスをもたらすためにいずれ自分に返ってくるというものである。
 
徳を積めば自分や子孫がまた違った形でそれを受け取り栄えていく。
自分の周りの人の幸せのためにした良い行いは徳になる。
だからやらされているという義務感ではなく、人の幸せに奉仕する意識で日々の仕事に向かうと良い。
ボランティアも結構、見返りを期待しない良い行いは神が喜び、徳を積んでいくことになる。
 
徳を積むにも色々と方法があるが、一番の功徳になるのは人の心を神に結びつけることであると言われている。
盲目状態の人の心を目覚めさせ、神への信愛を持つようにすることだ。
だからと言って、身の回りの人に「あなたも神を信じなさいよ」と押し付けてしまえば、どこかの新興宗教ではないがありがた迷惑だ。
人が神を想うにも魂の段階・レベルがあり、それに必要な時期というものがある。
それを踏まえず、神を押し付けてしまえば迷惑なだけではなく、気持ち悪がられ避けられるのがオチだ。
 
この難しい仕事を果たしていくのがヒーラーである。
ヒーラーの仕事の真の意義はここにある。
果たして人生の内で何人の人の心に神への信愛の火を灯すことができるだろうか。
一生の内で一人でもできれば大きな仕事をしたと言われている。
 
【2012年6月17日】

本で学ぶ、師から学ぶ

現代は有史以来最も本が流通し、ネットでも膨大な情報が氾濫している時代である。
その意味では自分が望む情報をこれまでよりも最も簡単に検索でき、入手できると言ってよい。
 
当サロンではヒーリングの講座を主催しているが、気功やヒーリングを学ぼうとすれば幾らでも活字から学ぶことができる。
私も本は好きでこれまでかなり本を読んできた方ではないかと思う。
自宅の自室も店舗の事務室も多くの書に囲まれている。
その上で思うのだが、本から学ぶというのはどうしても限界があり遠回りである。
 
日本の芸事の世界では師に内弟子として入門し、長い年月をかけて師の技を学び継承していく。
なぜそのようなことをするかと言えば、確かに知識・テクニックだけであれば活字で伝えられるところもあるのであるが、芸の世界ではそれを表面的に身に付けるだけでは片手落ちであり、より深い技や味わいを出すために師の持つ気(エネルギー)や呼吸、雰囲気、思考法を身に付けるという目的があるからである。
 
よく神業というが、そのような域に達するにはその技芸において見えない壁を幾つも超え誰ものぞいたことがない深遠な世界に踏み込まなければ体得はできない。
その世界に到達するためには、師が持っている見えない力を師の身近で受け、それを自分自身にコピーをするところから始まる。
それは芸事や武道などでは「守・破・離」という言葉で表現される。
入門してしばらく(と言っても相当長期間)は師の技を自分に移す、コピーする、つまりその伝統・伝承の技を忠実に守るということで「守」でなのである。
それから師の技に自分自身の創意を加え、独自の世界を切り拓いていく意味で「破」となり、師から離れ自分自身の世界をより深く研究し歩んでいく意味で「離」となる。
 
ヒーリング(気功)も相伝の技を身に付けるのであるから、このことが当てはまる。
というか、他の技芸以上に師の持つ気(エネルギー)を身近で受け取ることが重要となる。
それは本で学ぶものとはまるでレベルが違うと言っても過言ではない。
確かに本もその著者に力があれば、その本からも気(エネルギー)が伝わってくるが、それでも本人の間近で受け取る分量とは天地の違いがある。
 
本は体系的に短期で知識が身に付く。
本を読んでいるときはそれが自分の中核(コア)になっていくような感覚がある。
しかし、実際は自分のコアとはなかなかならない。
師から学んだことは知識量だけでは場合によっては本に及ばないかもしれないが、見えない部分の情報量は多大である。
本から得る知識というのはそれを補足し、裏付けるような位置付けになるという感じがする。
つまり、頭に入るが血肉にならないということだ。
 
ヒマラヤ聖者のスワミラーマはこれを直接的体験と間接的体験(≒本)の違いであり、叡智というものは直接的体験のみで得ることができると言っている。
スワミラーマは数々の師や書から幅広く学んだ聖者であるが、スワミラーマは自分自身が理解できない書の解説を文字も知らない聖者から学んでいた。
その聖者の名前は出ていないが、自分の名前も綴れないこの聖者に叡智の点で及ぶものはいないという。
スワミラーマはこう言った。
 
「どの言語の文字さえ知ることのなかったこの聖者は、いつも私の疑念をはらしたものだ。自己覚醒に至った有能な師のもので体系立てて学ぶことで、エゴの浄化の助けになる。そうでないなら、経典の叡智は人を利己的にする。今日知性的と言われる人々は、様々な書物や経典から事実を集めているだけだ。実のところ自分のしていることを分かっているのだろうか。知識で知性にえさを与えることは、何ら滋養のない食べ物を食べているようなものだ。それらを食べ続ければ病になり、他人までをも病気にする。たくさんの師がおり、皆よく教えているが、汚れのない、自ら体験した師の教えでなければ、生徒は吸収することができない。」
 
知性を誇る人であっても、その知識の蓄積の源は学校教育で学んだものであり、マスコミが作り上げた虚構の世界の情報と言える。
漫画家の荒木飛呂彦氏がその人を描くなら、知識人の身体をコピー用紙の塊と描くだろう。
その人にオリジナルなもの、真理・光っているものはあるだろうか?
本当に人間の魂を育てるのは体験に裏付けられた叡智であって、知識ではない。
知識はいずれ忘却の彼方に過ぎ去るが、叡智は魂に刻み込まれる。
 
ヒーリングを学ぶというのは、意識・気(エネルギー)を伝え受け取るということなので、日進月歩でヒーリング力の向上を自覚でき、また自分の意識の変化が分かる。
私自身も師や神のお導きで日々変わりつつあるのを実感している。
書のみで学ぶのは限界がある。
より大きな恩恵を受け取ることができるのは師の身近にいるほんの少数の熱意ある人達だけであるというのは技芸の世界では分野を超えて真理である。
 
【2012年9月11日】
 
〔参考文献〕
「ヒマラヤ聖者とともに」(スワミラーマ)ヒカルランド

伝授前に起こる浄化

当サロンのヒーリング講座の内容は全て自力ではなく、他力です。
他力とは人間の力(気)を高めてヒーリングするものではなく、神様との霊的なつながりを持ち、その力(気)を受け手に導くものです。
 
他力では特にご縁が重要となります。
ご縁とは、神様とのご縁、師とのご縁です。
自力は一人一人の努力や才能が物を言う世界です。
他力は努力だけではどうにもならない世界であり、師によって神様とのご縁を結んでもらわないとその力を頂くことはできません。
他力を頂くには神様とのご縁や師とのご縁がなければたどり着けないものです。
 
ご縁というのはどのようにしてできるのでしょうか?
私も正直良く分かりません。
自分がこれまで頂いたご縁がなぜ自分なのか答えが見つからないからです。
おそらくご縁というものは、過去世までに積んできた功徳や修行が大きく関係しているのではないかと思います。
もちろん現世でこれまでしてきたことも重要でしょうが、現世の数十年間の人生よりも幾世もの過去世で行ってきたことの方が遥かに比重は高いのでしょう。
 
つまり、過去世で何らかの神様とのご縁を持つこと(神事)を行って来ており、今世ではそれを忘却しているものの、修行をきっかけにしてそれを思い出すということになるのでしょう。
神様とのご縁は今世の修行前に既にある程度出来ていると見ることができます。
私も大分前に数人のチャネラーさんに背後関係をみて頂いたことがありますが、その当時は聞いたこともない神様の名前が出てきました。
それから分かることは、人は意識していなくても神様は既に見ていらっしゃるということです。
 
当サロンのヒーリング講座にお申し込みをされた方の多くは、今世、再び人として生まれ娑婆の世界で神様をさほど思うことなく過ごしてきたが、幾多の艱難辛苦を味わうことによってまた神様に目が向くようになった人達だと思うのです。
皆、自分の意思で受講の申し込みをしたものと思っているのでしょうが、実はそれは神様の図らい・お導きであることが往々にしてあります。
 
ヒーリング講座のお申し込みを頂いて受講日まで期間が少しありますが、その期間に体調を損なう人が少なからずいます。
胃腸の調子が悪くなり嘔吐をする、下痢をする、湿疹等の皮膚病になる、原因不明の高熱が出る、感情的にネガティブになる・・・等々、それぞれが結構苦しいものだったりします。
一見悪い現象の様ですが実はこれは神様による浄化作用なのです。
 
私も過去ヒマラヤに行く前の1週間にこれでもかという位大便が出たことがあります。(お食事中の方、おやつタイムの方、すみませんね。)
前回のバリ島の修行の際も浄化が起こり、気分が悪いため丸1日ぶっ倒れていました。
修行仲間でもインドに着くと急に体調を崩し、辛い状態になることが珍しくありません。
私たちはそれが浄化であることがわかりますので、「頑張って、頑張って」と励ますことしかできません。
数日それを乗り越えると気分が爽快になり、浄化が起こる前段階より元気になります。
私の師もインドで何度も死ぬか生きるかの浄化を経験しています。
行のレベルが高くなる程浄化も激しくなるのでしょうか、師がその浄化を経験している時に連鎖的に日本にいた私までも浄化が起こり、苦しくて死ぬのではないかと思った時期がありました。
霊性修行をしていますとこのように不思議なことが起こったりします。
 
人間と神様では存在する世界が波動的に大きく異なります。
神様との霊的結びつきを持つにあたり、心身が穢れた状態では深いご縁は結べません。
ご縁を結ぶ前にその人の不浄な部分を出し切ってもらい、それから神様が霊的背後につくのです。
お申し込みを頂いた後、私が何か遠隔でしているものでも、何かのエネルギー的設定をしている訳でもありません。
私は何もしていないのです。
しかし、人によって色々な浄化が起こります。
当人はさぞ辛いのでしょうが、浄化はまさに神様の恩寵でありギフトと言えるものでしょう。
 
浄化は不浄なものを強制的に排出しますので肉体的・精神的にきついものですが、人はそれを経過してより清浄になっていきます。
不浄なものとは、これまで心身に蓄積してきた老廃物やネガティブな感情のエネルギーであったり、またはその人が持つカルマ(因縁・めぐり)であったりします。
私たちは何もしなければそのようなものを常に抱えており、神様から見たらとても汚れている生き物と言えます。
霊性修行においては、人それぞれ適当なタイミングで神様の浄化が起こることが珍しくありません。
 
と、言っても伝授前に浄化が起こらなかったからといって落胆する必要もありません。
また浄化を必要以上に恐れる必要もありません。

日月神示」にもこの様に書いてあります。
この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、またメグリが一時に出て来て、その借銭済ましをさせられているのぢゃ。借りたものは返さねばならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが。(月光の巻・第四十四帖)
 
もし、浄化が起こったら薬はできるだけ飲まずしんどいかもしれませんがその時期が終わるのを待つのが良いでしょう。
薬は基本的に症状を抑えてしまうのでせっかくの浄化の働きを削いでしまいます。
(絶対に飲んではいけないということではありません。)
 
蓮の花
 
浄化を乗り越えるということは新たな段階に進むということです。
幾多の浄化を乗り越え、私たちはより清浄になっていきます。
霊性修行者はあたかも物質世界という泥中に咲く蓮の花のようでもあります。
浄化とは神様の恩寵であり、とても有難いことなのです。
 
【2013年6月5日】

 

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