コラム 天空のヒーラー3

 

 
 
 
 
 

コラム  天空のヒーラー3

 プレゼント
 なぜヒーリング クァンインには色々な神様がいるのですか?
 先生と呼んではいけない
 生徒さん、大募集!?
 伝授をすることの意味
 
自分の信念体系を疑う
 天才
 最近気になること①
 2013年12月17日 浦和上空に現れた雲

プレゼント

講座を受講されている生徒さんにその人に必要なパワーアイテムを差し上げることがある。
 
今日は私が身に着けているある神に関係するパワーアイテムを生徒さんに進呈したのだが、その人が身に付けると私が持っていた時よりも多くエネルギーが入ってきた。
生徒さんと私で「凄い!!」と驚いていたのだが、これは神がその人にそのパワーアイテムを通じてエネルギーを送っているのだと思う。
神が喜んでいる証拠だと言ってよい。
 
今回も生徒さんに直観でそのパワーアイテムを差し上げたが、その直観が間違いでなかったことがエネルギーで分かった。
その生徒さんは神を想う気持ちが強く、神がそれに応えている。
神を想う気持ちはバクティ(信愛)と言うが、人が神を想えば神はそれ以上に返して下さる。
より神のご加護が強くなり、その恩恵から人は益々その神に感謝し、バクティも弥増す(いやます)ことになる。
これが神と人との好循環で、人は神に益々引き寄せられて霊性も高まっていく。
 
神のエネルギーが入ったパワーアイテムは限りがありとても貴重なので、どの方にも差し上げられる訳ではない。(すみません)
私に直観が降りると、「えっ、あげなきゃいけないの??マッ、マジか!!」というためらいの気持ちに一瞬なる。
しかし、大切な物を身を切るようにして人に差し上げたらまたいつか別の物や法が私のところに帰ってきてくれるのだろう。
これは神の法則だと私は固く信じているので、大切な物を人に差し上げるのにさほど躊躇(ちゅうちょ)しない。
 
お金も同じくこの法則が当てはまり、昔の私であれば限られたお金を使えば残金が目減りしてもったいない気持ちになったものだが、今は神事や人のために使うお金は後に更に増えて戻ってくることを知ったのでこの様なことには割と気前よくお金を使う。
その分、私の生活は結構質素でシンプルである。
お金を使うのも、自己満足のために使うのではなく、神や人が喜んでくれるような使い方をすればそれは活きたお金になる。
 
明治時代の神人、長南年恵は幼少時から人からせがまれれば自分のものを何でもバカみたいに差し上げてしまっていたというが、人に気前よくプレゼントできるという素質は神に好かれる要因の一つなのかもしれない。

 

 

【2012年10月18日】

なぜヒーリング クァンインには色々な神様がいるのですか?

ヒーリング クァンインのサイトは色々な宗教や神が混在している様で一体何なんだと思う人もいるかもしれません。
そもそもクァンインとは観音様のことであり仏教です。
トップページの画像はジーザス・クライスト、キリスト様です。
私が主にヒーリングでお力を頂いているのはインドの神様で、日頃はインド・ヒマラヤで授かった行をしています。
日月神示は国常立尊(くにとこたちのみこと)を中心とする神霊団から降ろされた啓示で、日本の真正神道の系譜に属します。
また、サイトには出していませんが密教の不動明王も好きな神様の一つです。
 
自分が惹かれる神様を崇拝した結果が現在のこの様な状況になっています。
私が好きというのは仏像・神像の形態よりも、むしろ神のエネルギーを感じそれに惹かれて崇拝するようになりました。
 
こんなに多神を崇拝して良いのか?神様同士喧嘩しないのか?と思われる人もいるかもしれません。
私は特に多神を崇拝していても問題ないと思っていますし、高級な神々が喧嘩などする訳もないと思っています。
 
そもそも神というのは究極的には宇宙根源の神で一神でありますが、人間は神とは大分かけ離れた存在で根源神をいきなり直接感得するのは困難です。
究極の一神から分化し出てきたものが各宗教固有の神です。
一つの物を多角的な方面から見ていると考えたら妥当と思います。
私が2011年にヒマラヤで修行した時に、「すべての神はつながっており、一つである」という小さな悟りを得たのですが、万教同根なのです。
 
 
日月神示には神の現れ方を次のように記しています。
 
「大き一神を信ずるまでには、部分的多神から入るのが近道。大きものは一目ではわからん。」(黄金の巻・第六十九帖)
 
「おおひつき大神としてこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名ぢゃ。無限であるぞ。この方一柱であるが無限柱ぞ。すべてが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神ぢゃ。すべてが神ぢゃ。喜びぢゃ。」(春の巻・第二十一帖)
 
「一神説いて多神説かんのも片端、多神説いて一神説かんのも片端、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ。」(夏の巻・第十五帖)
 
「真の信仰に入ると宗教に囚われなくなるぞ。真の信仰に入らねば、真の善も、真の信も、真の悪も、真の偽りも判らんのじゃ。」
 
「神から出た教えなら、他の教えとも協力して共に進まねばならん。教派や教義に囚われるのは邪の教え。」
 
「他の神を拝してはならんという、そなたの信仰はそれだけのもの。早う卒業結構。」
 
「高い心境へ入ったら、神を拝む形式はなくともよいぞ。為すこと、心に浮かぶこと、それ自体が礼拝となるからぞ。」
 
インドで著名で偉大な聖者ラーマクリシュナ(1836~86)は数あるインドの聖者の中でも燦然と輝く大覚者(パラマハンサ)で高いレベルの悟りを得た人です。
最初はヒンズー教の女神であるカーリー神との合一を果たし、いつでもカーリー神の事を想えば恍惚状態になり、意識が神の領域へトリップしていました。
私たちが他人と話をするように、ラーマクリシュナは神を現前に見、また話をすることができました。
そのようにして神から直接教えを受け、それをインドの信者に伝え救済をしていたのです。
 
やがてラーマクリシュナはイスラム教にも関心を持ち始め、3日間という超短期間の修行でマホメットに会い合一を果たし見神の体験をしています。
また、その8年後にはイエス・キリストとも同様の体験をしています。
 
ラーマクリシュナはこう言います。
 
「一つの貯水池に、幾つもの水汲場がある。ヒンドゥー教徒はこちらの水汲場で水を汲んでジョルと言い、イスラム教徒はあちらの水汲場から水を汲んでパーニーと呼び、キリスト教徒はまた別な水汲場から汲んでウォーターと呼んでいる。また違う水汲場から汲んでアキュアと呼んでいる人達もいる。名前が違っていても内容(なかみ)はまったく同じもの。一つの神に色々な名前がついている。」

「宇宙の大実母は、子供達のおなかに合う様に料理を作って下さる。みんなの胃袋のつよさは同じじゃないからね。」
 
そのラーマクリシュナは部屋にヒンズーの神々、仏陀、キリストの画像を飾っていたということです。
 
悟りが山の頂とするならば、宗教の差異というものはその登り口の違いに過ぎず、向かうゴールは同一であることが分かります。
たくさん神を祀れば良いものでもなく、偉い訳でもありません。
一つの神を熱烈に信仰するのもまたそれも道であります。
自分の心が赴くところがすなわち神が導いてくれているところと思います。
 
【2013年1月15日】
 
参考文献
「完訳 日月神示」 岡本天明、校訂・中矢伸一
(ヒカルランド)
「インドの光」 田中嫺玉
(星雲社)

 

先生と呼んではいけない

ヒーラーサンガで何度言ってもわかってもらえないので、もう一度言うことにしました。
 
なぜ先生と呼んではいけないのか。
端的に言えば自分自身が生徒さんより霊性的に優れていると思っていないからです。
(私が紙面上で参加されている人を呼ぶときには「参加者?」「受講生さん?」「お客様?」もどうもしっくりこないので便宜上「生徒さん」と言います)
確かに神事やマントラ、ヒーリングについては後からスタートした方々より知識と経験はあります。
しかし、そのようなものは実はたいしたものではなく、この分野においてはいかに神とのつながりを持てるかという点が大事なのです。
その意味では実力(神とつながれるだけの高い意識レベル・ピュアなハート)があるかどうかに尽きるのです。
神とのつながりを持つためにはもちろん今世での修行も重要ではありますが、それだけではなく過去世でやってきたこともまた重要なのです。
なぜなら意識レベルというものは死を超越して持ち越しができるものだからです。(地位名誉・お金は持ち越しができません)
私は今世においては生徒さんよりスタートが少し早いだけであって、それは霊性修行においては何の立場を保証するものでもないのです。
 
凡庸な私よりも幾つもの過去世で修行を重ねてきた魂の方が今世においては更に高い境地に辿り着くことでしょう。
私は生徒さんが私より高い境地に行くことを厭いませんし、祝福できるであろうと思います。
 
先生と呼ばれ、果たして尊敬されているのかどうかわからないけれどいい気分になっている人たちはどこまで後進を導けるでしょうか。
自分が追い越されるのが嫌なのであれば、教える内容も限られるということにならないでしょうか。
このスピリチュアルな世界では師が弟子を精神的に拘束することが非常に多いのです。
先生と呼ばれ気分がいいというプライドやお金が動機になっている人のパワーは決して大きなものではありません。
智識や技能においてももったいぶらず出す(=教える)ことが大事であり、出せばまた更に重要な智識や法が入ってくるのです。
これは私が信じている法則の一つです。
 
誰が厚い信仰をもっているかどうかを神は分かっていますし、そのような人の霊性の進歩は非常に早いものとなることでしょう。
つまり、修行を開始した時期の多少の早い遅いは神の前では目くそ鼻くそを笑う様なものなのです。
(これは私が師や兄弟弟子に敬意を払っていないという意味ではありません。)
 
もちろん、私もより高い霊性の境地を目指していますので、まだまだ後進の生徒さんを導いていけると思っています。
でも生徒さんが初心者の域を超えたらもう実質生徒ではなく修行仲間であると私は見ます。
一緒に霊性の道を歩んでいけることはこの上ない幸せなことと思います。
 
大手のスクールの様に大々的に生徒募集をしている訳ではなく、ご存知のように知る人ぞ知る細々とした修行道場です。
ここに来て下さっている人たちは皆深い縁がある人ばかりであろうと思っています。
その縁の多くは今世だけではなく、おそらく遠い過去において顔や名前が違う関係性の中で同じような事を一緒にしてきたのではないかと想像しています。
 
と、いう訳で今後私のことは「水野さん」とさん付けで呼んで頂けたら幸いです。
 
【2013年4月21日】

生徒さん、大募集!?

生徒さん、大募集!!
今ならキャンペーンにて授業料半額!!
出血大奉仕!!
いつやるの?今でしょう!!
 
・・・と募集をかける気は更々ありません。(ごめんなさい)
普通のスクールであれば、売上目標があるでしょうからそうするのでしょうが私にはそのようなものはありません。
 
私はご縁のある人に技を伝えていければ良いと考えていますので、生徒さんを大募集する必要はないのです。
 
先日、友人と食事をしている時に私の店に入った電話が自分の携帯に転送されてきました。
ちょっと気付くのが遅くなり手にした時にコールが切れてしまいました。
電話番号から新規のお客様だとわかりました。
友人は「おっ、大丈夫?」と心配そうに言いましたが、私は「まぁ仕方がない」と何もしませんでした。
数年前までは着信履歴が残っていたら、時間がそれ程経っていない状況であれば「出られなくてすみません」と折り返しお電話をしたものです。
 
私はご縁というものを大切にしています。
ご縁にはお客様ご本人とのご縁、お客様の背後の霊的存在とのご縁があると考えています。
ご縁があれば今回電話が繋がらなくてもまた近いうちに必ず繋がると信じていますのでお客様には申し訳ありませんが折り返しのお電話はしないのです。
ご縁がなければその人から電話が鳴ることはないでしょうが、それはそれで良いのです。
そのお客様と私を結びつける必要があるのであれば、そのお客様の背後霊が動き成就させるはずです。
売上のことを重要視すれば、電話に出ないことは顧客が逃げてしまうことになりますからお客様を追うのがセオリーと思いますが、それはしません。
 
私はこのサロンで伝えていくものが本当に価値のあるものだと考えていますので、それをわからない人にわかってもらってまでやってもらおうとは思いません。
分かる人がやってくれたら良いと思います。
 
分かる人には直観でこれは本物だと思って頂けるのではないかと思います。
また気(エネルギー)が分かる人はホームページから発せられる波動でそのレベルが分かると思います。
高いエネルギーはあたかも炎の様で、その炎の光に魅せられて虫が集まる様に、高いエネルギーには遠くからもご縁のある人が集まります。
 
気とはそういうものであるというのが私はよく分かります。
自分自身もより高いレベルの気を求めてヒマラヤの奥地やバリ島の山中まで苦労して行っているからです。
日本から遠く離れた地で色々な聖者とお会いできると「ご縁があるからなんだなぁ」とその見えない絆に感謝の思いが湧いてきます。
だから当サロンの気にご縁がある方は私が大々的に宣伝はせずとも必ず呼ばれるものと信じているのです。

共鳴
 
ご縁のある人は、今世初めてのご縁というのもあるでしょう。
また過去世で一緒に修行や仕事をしてきた人もいるでしょう。
生まれてくる前に記憶が消されてしまっているので私にははっきり分かりませんが、何となく初めて会ったのに懐かしい感じがする人もいます。
過去世が分かる人から「私は鎌倉時代にも先生に治して貰いました。」と言われたことがあります。
この話だけではなく、実はこれまでに多くの人から過去世でご一緒させて頂いた話を伺ってきました。
私にはその記憶が出てきませんのでわかりませんが、縁が深い感じはその人達から伝わってきました。
 
過去世からのご縁が今世初めてのご縁より大切であるということではありません。
新しい出会いももちろん大切です。
しかし、過去世からのご縁は遠くにいながらも互いの気が共鳴してまた集まってきている様にも思えます。
「前回途中で終わっていたことをまた一緒にやっていこうではないか」と。
いくつかの人生を超えてまた人が再会するというのは何かとてもロマンがある様に感じます。
 
【2013年5月16日】

 

伝授をすることの意味

一般の習い事の教室と異なり、当サロンの様なヒーリングや気功治療、霊性修行の指導の特徴は伝授という形で、エネルギーを生徒さん(または弟子)に伝えていくことです。
伝授とは、知識を教えるということではなく、エネルギー・法力(パワー)を受け手に移すことであり、それによって伝授を受けた人は伝授者が持つエネルギーを間もなく使えるようになります。
 
世の中には色々なヒーリングエネルギーがあり、それを伝授しています。
伝授というのを派手に、商業的に行っているところもある様に聞いていますが、本来伝授というものはそのように軽々しく行うものではありません。
なぜならヒーリングのエネルギーを移すということは背後の霊的関係まで影響があるものだからです。
 
師が弟子に伝授をすると、師弟間で魂のつながりができることがあります。
真剣に弟子を育てようという意思がある伝授というのはそのようなものだと思います。
このような師弟間の魂のつながり、霊的な系譜をインドではグルパランパラと言います。
血の繋がっている家系で先祖にさかのぼれる様に、魂の繋がりも師のまたその師、更にその師とずっとさかのぼっていくことができるのです。
その霊的系譜の中には霊性の高い偉大な聖者や悟りを啓いた聖者もいることでしょう。
このように見えないけれど貴重なご縁と繋がっているということなのです。
 
師が弟子に伝授を行い特定のエネルギーを移すということは、師にとって弟子のカルマの一部を師が引き受けるということにもなるのです。
その意味で弟子をとるということは師にとっても大変な重荷を背負うことになります。
 
私の師はこのように語ってくれました。
「ここに水が入ったペットボトルが2本ある。1本が師のペットボトルでこれは綺麗な水が入っている。もう1本は弟子のペットボトルで泥水が入っている。この水の濁りはカルマを表している。弟子をとるということは師が弟子のこの泥水を自分のペットボトルに移すということになるのだ。」
 
当然ながら師の澄み切った水は泥水で濁ってしまうことになります。
 
師は長年霊性修行を重ね自身のカルマの浄化に勤めていますが、弟子をとるということは弟子のカルマもある程度背負うことになりますからそうそう人数をとることはできません。
ブッダでも本当につながりの深い弟子は十大弟子と言われている様に10人しかいません。
イエス・キリストも12使徒と言われる様に12人しかいません。
本物のヒマラヤの聖者は弟子をせいぜい2~3人しかとりません。
 
自分自身の行だけでも大変なのに、更に他人のカルマを負うというのは余程献身的な思いがなければできることではありません。
私はそれを知っているので、師の足を引っ張らない様に自分がカルマを負うようなことを自重する様にしています。
 
また私は修行仲間の中では行に真面目な方とは言えないと思うのですが、それでも時々グンと自分の力が上がるのを感じることがあります。
この様な時、師が行を達成することによってレベルが上がり、その余波で私も少し引き上げられたのではないかと思うことがあります。
これだけ読むとタナボタ的であると感じられるかもしれません。
しかし、魂のつながりというのはこのような側面もあるのだと思います。
 
唐の恵果阿闍梨から真言密教の伝法を受けたのが空海です。
恵果阿闍梨は空海が来ることを事前に分かっており、空海を見るなり「あなたのことを長い間待っていた。」と言ったそうです。
恵果阿闍梨は約千人もの弟子がいたそうですが、その弟子達を差し置いて空海に密教の奥義の全てを伝授しました。
空海はそれを日本に持ち帰り真言密教として布教したのですが、恵果阿闍梨はすべてを伝えた後もぬけの殻になって半年後に他界されたそうです。
恵果阿闍梨の様に自分の力を弟子にすべて移し、その後に他界した宗教家、霊能者を私は何人か知っています。
 
私自身も学びの途上ではありますが、自分の下に学びに来てくれる人の中で真剣な向上心を持っている人、諸衆救済の思いが強い人には伝授で大きなエネルギーを与えてあげて何とかしてその期待に応えたいと思っています。
 
【2013年7月6日】

自分の信念体系を疑う

今年の夏、トム・クルーズ主演の「オブリビオン」を視ました。
そのストーリーは、この様なものです。
※この先はネタばれになってしまうので、映画を楽しみにする人は読まないで下さい。
 
エイリアン“スカヴ”の侵略を食い止めたものの、その戦いによって地球が半壊してから60年。生き残った者たちがほかの惑星へと移住してしまった中、ジャック・ハーパー(トム・クルーズ)だけが地球に残って上空から偵察していた。パトロールに向かっていた彼は、誰一人として生存しているわけがないエリアで何者かの襲撃を受けてしまう。(シネマトゥデイより)
 
ジャックは人類を守るという目的で活動をしていたのですが、あることを知らされて自分の信念体系が180度転換してしまうことになるのです。
それはエイリアン“スカヴの正体とは、生き残った人類であり、ジャック自身はエイリアンに製造されたクローンに過ぎなかったという真実です。
自分を支えてきた信念がそこで崩れ去り、そのあたりの場面では映画をみている人も何が何だかわからなくなります。
人類を守るために敵と戦っていたのに、自分自身が記憶を消されたクローン人間で、人類の敵であったというのがこの映画のオチで、ストーリーの面白さです。
 
このように真実とは全く違うことを信じて生きているは映画の中だけのものなのだろうか、と映画を見た後に私は思いました。
 
私たち地球人・日本人は非常に多くの信念によって自分というものを作っています。
それは親の教育、小学校からの学校教育、地域、社会、マスコミ、政治、経済、道徳、伝統、歴史など様々で、幼少の頃からそれらを脳にインプットして(され?)生きてきました。
それにより正しいものや正義としての価値観が作られています。
私たちは非常に多くの「これが正しい」「こうあるべき」というものに支えられて生きています。
そしてそれに当てはまらないものは異端や犯罪者、気違いとして排斥します。
 
しかし、その信念体系が果たして真実であるのかどうかはわかりません。
家畜は自分自身を家畜とは思っていません。
屠殺場に連れられ、殺される時にようやく気付くのです。
 
あなたの人生の最初の記憶とは何ですか?
私の人生の最初の頃の記憶は、小さい身体ながらに『「ひろとも」っていい名前だな、でも「みずの」ってちょっとなぁ』と思ったこと、それと『自分が見ているものを他の人達も同じように見ているのだろうか。目に見えているものは本当にあるのだろうか。』ということでした。
つまり、自分はこの世界を構成する一つなのか、それともそうではないのかということを多分2~3歳前後の時に考えていた様に思います。
 
親の教育・学校教育を受け成長しましたから他のすべての日本人と同じ価値観を身に付け大人になりました。
しかし、霊性修行を続けていき神を常に思うようになると段々とその価値観が変化し崩壊し始めました。
 
霊性修行者は悟りを目指しますが、悟りとはこの世の真実・真の姿を体得することと私は捉えています。
 
また、私は宮崎駿さんの「風の谷のナウシカ」(原作)が大好きで幾度も読み返してきました。
すべての漫画で一番を決めるとしたら私は「風の谷のナウシカ」を挙げます。
以前にも書きましたが、この作品はスピリチュアルなことに造詣の深い宮崎さんがチャネリング的に書き下ろしたものと思っています。
「風の谷のナウシカ」(原作)は全7巻からなります。
映画になったのはこの2巻までの内容で、話は実はそこからが本番で面白くなるのです。
まぁ、話は複雑で奥が深いのでほとんどの人は1回読んだだけでは何のことやらわからないと思います。
宮崎さんの絵は細部まで手を抜かずに描かれていて本当に上手いです。
またこの作品の世界観が一人の人間の想像力から生まれるとは到底私は信じられません。
終盤に進むにつれナウシカの話す言葉が深みを帯びてくるので、スピリチュアルな世界のことがわからないと意味が伝わりません。
ナウシカのキャラクターも映画と違って、もっと暗い性格で描かれています。
 
この「風の谷のナウシカ」でもナウシカがこの世の真実に気付き信念体系が崩れる場面が最終巻で訪れます。
※これもネタばれになるので楽しみにする人は飛ばして下さい。
 
ナウシカの気付きとは・・・ナウシカを含めその時代の人類は、文明が滅びた後に発生した過酷な生態系に順応するために、その前の文明の科学者達が遺伝子操作を繰り返し人工的に作り出した「人間」であったということです。
要は自分自身が遺伝子操作された産物であるという気付きです。
また腐海という攻撃的かつ毒性の高い菌類によって成る森とそこに住む「蟲」と呼ばれる巨大な虫型生物がこの作品の特徴的な舞台設定で、人々は腐海から放出される毒の瘴気を吸い込まない様マスクをして腐海のほとりで暮らしています。
腐海と蟲を恐れ、その侵食に怯えて前近代的な文明の中で人々は生活をしています。
ナウシカのもう一つの気付きは、腐海を中心とした生態系が「火の7日間」という前文明を滅ぼした戦争後の汚染物質だらけになった地球を浄化するために作られた人工的なものであったということです。
神を自認する「墓所の主」は腐海によって地球の毒素が浄化された後に、これもまた遺伝子操作で作られた新しいタイプの人間をその環境に置き換える計画を持っていました。
その世界の真実にナウシカは最後の場面で気付くのです。
霊性修行でいう悟りとは違いますが、聖女としての役割を担ったナウシカは世界の真実を知る貴重な存在であり、救世主であったのです。
 
「オブリビオン」といい、「風の谷のナウシカ」といい、ジャンルは違いますが共通するのは信念体系の崩壊です。
 
私たちの信念はどうでしょうか?
私たちの世界は安全であり、真実なのでしょうか?
 

【2013年10月17日】

天才

このサロンではメディテーション&ヒーリング講座という瞑想講座がありますが、瞑想によって得られる効果ということについて考察してみたいと思います。
 
当講座の趣旨としては、瞑想によりヒーリングの力を得ることです。
当サロンで教えているヒーリングは神霊とのつながりを持ち、それを瞑想によって深めていくことによってその力を体得します。
気を練りそれを発していく一部の気功法とはその方法が根本的に異なります。
マントラという神から降ろされたマジックワードを心中で唱えることで自動的につながることができます。
 
しかし、そのつながりも初心者と熟練の瞑想者ではその太さ・濃さが大きく異なります。
それはあたかもプロバイダーの通信速度にも似ています。
初心者の場合は、ホームページを見るのにページがなかなか変わらない・動画が止まるという様ないわゆる「遅い」通信速度で、熟練者の場合はストレスフリーで動画や重たいデータのやり取りも可能であるという様な違いと考えて頂けたらよいと思います。
 
神霊とのつながりを持つと、同時に神気が身体のエネルギー場に入ってきます。
これも熟練者になればより強い神気を帯びるようになります。
私の師のエネルギーは非常に強く、近くに居るだけでビンビンと神気が伝わってきて私の身体が熱くなる程です。
人によってその気(エネルギー)の強さや質感は差があります。
通常何も修行をしていない人のエネルギーはスカスカの様に感じられますが、修行を重ねた熟練者からは熱い感じのエネルギーやバイブレーションが感じられます。
 
鳥山明氏の漫画「ドラゴンボール」では主人公の孫悟空や仲間のピッコロ・べジータ・クリリン達が強敵が現れる度に修行を重ね、戦闘能力を上げて敵に向かいます。
修行期間を終えて仲間の下に終結すると、例えば孫悟空がピッコロを見て「ピッコロ、また力を上げたな」等と言います。
孫悟空はピッコロの気(エネルギー)を感じそのレベルを推し量るのですが、これは漫画だけの話ではなく、実際に私や修行仲間が人と会うとその気感で相手のレベルというものがわかります。
この孫悟空の様に、私や兄弟弟子は「また先生のレベルが上がってるよ。」という様な会話を自然に交わしています。
 
修行を重ねていくと修行者のエネルギーのレベルは修行の成果に応じて上がっていきます。
気(エネルギー)がその人の状態を表しますから、口でいかに立派なことを言っても、肩書きや学歴や財産を持っていようともまったく取り繕うことはできません。
 
レベルの高い真の聖者は弟子をとるのにこのように相手のエネルギーを見て判断します。
自分の弟子として相応しいと感じて貰えたら迎え入れて貰えます。
しかし、そのエネルギーが相応しくないと思われると入門は叶わないことになるでしょう。
お金を払えば入門させて貰えるのは、それ程高い境地に至っていないレベルの聖者と言えると思います。
 
 
瞑想修行をしている人が皆ヒーラーや悟りを目指しているわけでもないでしょう。
その様な目的でなくても、神霊とのつながりが深くなるとあらゆる分野でそのクオリティというものが変わってきます。
それは例えば、歌や舞踊、書画・絵画などの芸術、武道、文筆活動などの多様な自己表現において現れます。
 
神霊とつながっていない人が歌を歌う場合、それが上手であれば「あぁ、いい歌だなぁ」「歌が上手いなぁ」という感想になりますが、神霊とのつながりが深い人が歌う場合はなぜか知らないけれど涙が溢れてくる、魂を揺さぶられ鳥肌が立つという様なよりディープな反応が現れます。
 
舞踊の場合は、神霊とつながっていない人の舞(ダンス)を見て「凄い上手い」と思うかもしれません。
しかし、神霊とつながっている人が無我の境地で舞う舞は集団の中で舞っていても強烈なエネルギーを発していますのでその人だけが異様な存在感で際立ち、その舞を見て魂が洗われる思いがすることでしょう。
涙がボロボロと出てくるかもしれません。
 
書画や絵画は人間ではなく作品ですが、それからも強いエネルギーが発せられているのです。
世に有名な書画・絵画はその作者が神霊とのつながりを持っていることがあります。
人はその作品の上手さに感動するのではなく、そこから発せられるエネルギーによって深い感動を覚えるのです。
例えば、岡本太郎さんの作品を見ても私には芸術の心が乏しいためか何が上手いのかよくわかりませんが、その作品から発せられるエネルギーは氏が「芸術は爆発だ!」と言った様に強く鮮烈なエネルギーが発せられているのがわかります。
そのエネルギーは「凄い!」と思います。
通常、人は無意識でそのエネルギーを感じ、その作品を評価するのです。
 
武道の分野では神霊とのつながりを持っている人は、そうでない人とレベルに大きな隔たりがあります。
初心者から上級者への階段はあるのですが、上級者から達人への階段はあたかも途切れているように感じられます。
次元が違うとはまさにこのことです。
合気道の創始者の植芝盛平氏は京都綾部の大本の修行道場での神秘体験の後に合気を体得し無敵の強さを得ました。
総合格闘家で400戦無敗と言われるヒクソン・グレーシーは、神気を得ていたか定かではありませんが背後霊の力によって相手の攻撃が事前に分かる、相手の動きがスローモーションの様に見えるという境地を得ていました。
ヒクソン・グレーシーはかつて日本で試合をしたこともありますが、試合前に通常の選手がやるスパーリングなどのトレーニングを一切行わず、長野県の山中に篭り瞑想に耽っていました。
 
またアメリカのメジャーリーグで数々の記録を更新している天才打者イチローも瞑想家であると言われています。
 
文筆の分野では初期の宮崎駿氏はそうであったと思います。
はっきりとはわかりませんが、映画「もののけ姫」を作ったあたりまではそうであったと思います。
「風の谷のナウシカ」の原作本7巻はそれが最も現れているものと私は思います。
 
ヒーリングにおいては神との合一を果たしたヒーラーは、生き神様と言われ病人に息を吹きかけるだけで病気が治ったりする人もいれば、コクンと頷いただけで病人が治る人もいます。
空のビンに神水を無から湧出し、それを病人が飲むだけでほとんどの病気が治っていたヒーラーもいました。
これらは皆 瞬間的にヒーリングが完了し、世の多くの治療法がアホらしくなる位のレベルの違いがあります。
 
このように、神霊とのつながりが深くなると常人のレベルを脱し、余人を寄せ付けないレベルに到達します。
瞑想は神霊とのつながりを持つのに有効なのです。
こうして神霊とつながりを深めた者は、天からの力を得たものとして天才と言われます。
天賦の才とは、天から賦与された才能のことで、天才のこと。
天から知恵や技能・技術をダウンロードしている様なものです。
天とは、宇宙であり、また神のことです。
 
注意しなければいけないのは、その境地に達するための動機です。
有名になりたい、お金を得たい、地位・名誉がほしい、○○に勝ちたいという動機では絶対に到達できません。
この様な動機では小さなパワーしか得られず、上達のレベルも限界があります。
あくまで自分のフィールドにおいてそのレベルを高めよう、道を究めようという純粋な動機でないと到達できないものと思います。
【2013年11月1日】

最近気になること①

秘密保護法が可決したり、中国との防空識別圏の問題がニュースで取り上げられるのが多くなっています。
社会が何となくきな臭い風潮になってきましたが、戦争の足音が一歩ずつ近づいてきている様です。
 
これは私の直観ではなく、霊と交信できる人の口を介して知らされました。
やっぱりというよりも、あの世では随分と危機感を募らせているなという印象でした。
私も自分自身に起こる霊的な変化などから大きなことが起きつつあるというのは実感しています。
 
日本人は約70年前に悲惨な戦争を経験しましたが、本当にすっかり風化してしまった様に感じます。
戦争経験者はもうほとんど亡くなってしまったし、私より下の世代はアメリカと戦争をしたことすら知らない人も多い様です。
学校教育は戦争のことを正しく伝えていないので、私たちの祖先がいかに塗炭の苦しみを舐めたか分かっていないのは大きな問題です。
 
私は世界情勢にはまったく疎いので、何が危険であるかは具体的に申し上げられませんが、この状況を回避していくのは個々人の意識改革と祈りだと思います。
祈りの力を馬鹿にしてはいけません。
祈りの力はこの3次元(物質世界)のみならず、別次元(あの世)まで波及していくのです。
 
瞑想をする人は、自分自身の祈りの前に世界平和を祈りましょう。
世界が愛に満たされ、紛争や対立などが起きないよう祈りましょう。
 
読んでいて余り嬉しくないことをお伝えしたかもしれません。
この予感が杞憂で終わります様切に祈るばかりです。
 
【2013年12月12日】

2013年12月17日 浦和に現れた雲

浦和に現れた雲

浦和に現れた雲

今朝10時頃、浦和上空に現れた雲です。
ほぼ等間隔に並んでいます。
強い気(エネルギー)を感じますので、何か意味があるのかもしれません。

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