スピリチュアル・ヒーリング、ヒーリング伝授、ヒーラー養成、レイキ、瞑想・霊性修行などを行う本格的スピリチュアルサロン

 

 
 
 
 
 

コラム  天空のヒーラー

  神の出現
  生活即修行
  人の行く道の裏に花あり、阿呆の行く道に・・・
  黒人?の治療霊
  神の芳香
  一生懸命に教える、伝える
  護摩行の火 10月
 人にとって最も重要なこと
 秩父山中にニホンオオカミはいる!?
 私が歓迎するお客様
 ドネーション(お布施)

神の出現

前に飛行機に乗った時、富士山が飛行機の窓から見えた。
その飛行機は富士山のすぐ上を通るのだ。
富士山に窓からご挨拶をして、富士山のエネルギーを感じていた。
富士山の斜面に大きな雲がどっかり乗っかっていて、よくみたら龍の頭そっくりだった。
あわてて携帯を取り出し撮影をしようとしたが残念ながら間に合わず・・・日本は龍神の国なんだなぁと感慨深かった。
 
私は龍神にご縁があるようだ。
前に霊視してもらった時もそのような事を言われたし、最近特にそれを感じる。
でも、その雲を他の人が見たとしても龍の頭に見えることはなかったのだろう。
神はその人に向けてその人用に姿を変えて現れてくれる。
ご縁がない人にはただの雲の固まりにしか見えなかったに違いない。
 
他にも前にちょっとストレスのことがあってやるせない気持ちで帰宅している時、ふと夜空を見上げたらハヌマン(インドの神様で猿の顔をしている)が雲の形をして現れていた。
「なぜハヌマンが・・・」と思ったが、「大丈夫だ、元気をだせ」と言われているようで励まされた。
その問題はその後スイスイと解決してしまった・・・ありがとうです。
 
夢に神様が出てくることがある。
これはクライアントさんからも時々聞くことであるが、神様の夢は見ようとしてみれるものではなく、神様とご縁があり、さらに神様が夢に出てきてくれないとそんな夢は見れない。
夢は想像の産物ではなく、実際に睡眠中あちらの世界で経験していることである。
その記憶を持ち帰ることができたとき夢をみたということになる。
 
うちの店には福の神の仙台四郎さんを祀ってあるが、クライアントさんが「夢に仙台四郎さんが出てきました。」とこの前言っていた。
その人は随分ひどい膝痛だったが、程無く快癒した。
 
他にも龍神様の夢を見たという人もいた。
やはりその人の症状もすぐになくなった。
 
神様にご縁がある人の共通点は人間が素直で謙虚で明るいということだ。(私自身はまだまだだが)
学や肩書き・名誉・財産の有無はまったく関係ない。
神様は素直な人や人のために生きている人が大好きだ。
 
私も以前サティア・サイババが亡くなる直前に夢に現れたことがあった。
私のお願いを喜んで聞いてくれた夢だった。
夢という感覚ではなくとても明瞭な夢でまさに経験していたような感じであった。
特に私はサティア・サイババを信仰している訳ではないのだが、時々想うと慈愛を感じ涙が溢れてくる。
サティア・サイババは4月に他界してしまったが、神の化身は肉体を捨てて前以上にパワフルになって人間の救済をしているに違いない。
 
本当にご縁が深い人、信仰がとりわけ厚い人には神は肉体を持って出現すると言われているが・・・そこまでの信仰を私も持てるようになりたいものだ。
【2011年7月15日】

生活即修行

「人のためになりたい」という気持ちでヒーリングを習いたいという人は多いと思う。
ほとんどの人がそうかもしれない。
確かにヒーリングの力があれば家族・親戚や友人などにヒーリングをしてあげられる。
力がついてくればそれで独立開業もできるかもしれない。
自分自身にも自己ヒーリングができる。
とても便利で貴重な技術だと正直思う。
 
でも、よく考えなければならないのは、果たしてヒーリングの力がないと人の役に立つことはできないのかということだ。
人の役に立つという意識はヒーリング技術を身につけることで初めて出てくるものではあるまい。
本当に人の役に立ちたいという人はヒーリング技術の有無に関わらずそのようなことを生活の中でしているものだ。
 
ただ、力のみを求めてくるとやがて力に溺れてしまう。
当サロンの力は正当・正道の力であるが、力のみを渇望すればダークサイドに落ちブラックなエネルギーを使うようになる可能性がある。
魂を売り、力を手に入れるとそれは来世以降気の遠くなる程の時間拘束されることになる。
世の中にはブラックな力の方が多い、誘惑に負けないようくれぐれも気を付けなければならない。
 
そもそも、ヒーリングができるできないというのは人の霊性とはまったく関係がない。
ヒーリングができない人でも霊性の高い人は多い。
うちのクライアントさんの中にも、笑顔を絶やさず人に元気を与えることを心掛けていたり、安い給料であるが介護の仕事を生きがいとしていたり…お会いすると私は「先生」と呼ばれながらも頭が下がる思いがするような霊性の高い方々がいる。
 
ヒーラーは霊性を高めて行こうとすれば生活そのものを修行とみなし、他の人の鏡となるようでなければならないと思う。
誰からどこを見られても非がない位、自分自身に厳しくなければならない、私自身そういつも心掛けている。
なぜなら、他人は人の一面しか見ることはないが、神はすべてをお見通しだからである。
一切のごまかしは効かない。
 
 愚痴をこぼしてはいないか
 良心に恥じる行動をしてはいないか
 言葉と行動に嘘や隠し事はないか
 悪口を言ってはいないか、人を悪く思ってはいないか
 未来の余計な心配をしてはいないか
 常に感謝を持つようにしているか、感謝の方面から見るようにしているか
 相手の気持ちに立って考えているか
 人と自分を比べて落ち込んではいないか
 笑顔を絶やさないようにしているか
 親孝行をしているか
 貪欲になっていないか
 
まだまだ心掛けることは山ほどある、これも人それぞれ違うとは思う。
 
いくらヒーリングをしようと、瞑想をしようと、マントラを唱え魂を浄化しようと、人間ができていなければ霊性の向上は限定される。
かつてある聖者に信者がこう質問をした。
「毎日1日の大半の時間を瞑想している人と、瞑想をする時間はわずかしかないけれど奉仕を生活としている人とどちらが霊性は向上するのでしょうか?」と。
その答えは大方の予想を反し後者の方であった。
つまり、奉仕という生活そのものが瞑想であり、霊性向上につながるということがこのことからもわかる。
 
霊性修行は生活の場が第一であるということを忘れてはならないと思う。
人間ができてこそ、その他の瞑想やマントラ(真言)が初めて活きてくるのだ。
 
2011年7月19日】

人の行く道の裏に花あり、阿呆の行く道に・・・

私はこれまでの人生で大きな選択の場面で人の行かない道を選んできたように思う。
 
進学する大学を決める時
浪人する時
就職の時
配属の時
会社での業務内容

そして、転職して気功治療(ヒーリング)の仕事に就いた時

常に私は人に流されず自分の頭で自分の人生にとって最適な道を選択してきたつもりだ。
多くの人が進まない道を歩まなかったのは、価値観が独特だったからなのだろう。
幾度か周りの人から「前例がない」というアドバイスをもらったものだが、道は自分で切り拓くものと考えていた。
こんな調子だからマイペースな奴だと思われていた。

これまで選択の時は目先の損得に左右されず敢て苦難の道、厳しい道を選んだように思う。
そのお陰か何かと大変な人生だと思うが、その代償か得るものも大きかったと自負している。

私は今年店舗の移転をしてできるだけ人目につかないように生きていこうと決めた。

今私がこの道を進もうと思っているのは「阿呆の道」だ。

「阿呆」とは文字通りアホのこと。
皆できれば賢くなりたいと思っていて頑張っているのだと思うが、誰も敢て阿呆になろうとは思わないだろう、人と違う道とはこのことだ。
周り中お利口さんだらけだ。
社会の常識で頭がカチカチになっているお利口さんばかりだ。
本当はマスコミが流している情報や学校教育で教わった内容など正しい真実であるとは言えないというのに。

大阪ではアホといえば坂田利夫のようだが彼は本当の阿呆ではない。
阿呆は全く人と考えることが違うから阿呆なのであり、損得勘定なんてないし、行動は予測できない。
自分の頭の中の世界で社会の一般常識とはかけ離れた大きな事を考えている。
阿呆は誰にも縛られない、拘束されない、真の自由を持っている。
こだわり、執着が少ないのだ。
お得なことがあっても自分より人をたてて自分は引っ込んでしまう。
心が優しく尚且つ人間が大きくないと阿呆にはなれない。
阿呆の頭の中は余人には窺い知れないのだ、一歩間違えると危ない人と見られてしまう。
江頭2:50(えがちゃん)は本当の阿呆かもしれない、私は彼のギャグはツボが違うので余り笑えないけれど人物は結構好きだ。

私はヒーリングの力をあげるため、より背後の神霊とつながるために阿呆になろうとここに決心した。
背後の神霊からも「本を余り読まないように」と本ジャンキーで情報メタボの私にメッセージが降りてきたばかりだ。
小利口では神に近づけないのではと思っている。

私がこう思うようになったのは過去に超絶的なヒーリング能力を持っている人の共通点を考えたところ阿呆に鍵があるのではないかと思うようになったからだ。
その一人、黒住宗忠は自身を「阿呆の修行をしてきた」と現に言っている。

私の人相は今のところ阿呆にはほど遠いのだが・・・阿呆でいつもニコニコしていて人に好かれる人物になりたいと思う。
これからそう修行していこうと思う。
【2011年8月5日】

黒人(?)の治療霊

昨日耳鳴りでご来院のご婦人をヒーリングした後のご感想から。
「たくさんの人(=霊体)が出てきた。中でも大きな黒人さんがいて『そこだ、そこだ』と指示していた。たくさん人がいてにぎやかで楽しかった。」とのこと。
 
「黒人???」、はて?私の背後に黒人の御方などいたであろうか?
知らぬ間に黒人の治療霊がついたのだろうか?
 
思い当たるところもなく、よくよく聞いてみると「白い服を着た大きな黒人さん。だけど黒人の特徴の厚い唇はなかったわ。目がとても鋭い人で、年齢は35歳位」ということだった。
 
「ああ、そうか。この方は黒人ではないな。肌は褐色系なんだろうが。」と合点がいったのであった。
この御方は私の背後でヒーリングのお力を下さっている方で、また時々大切なメッセージを降ろして下さる方である。
人間だった時のお姿を写真で見たことはあるが、こうした霊体との遭遇は私は経験がなく、ヒーリング中に出てきて下さったのはとてもありがたくとても感激した。
 
神の姿はこちらから見ようとしても、見せてくれるとは限らない。
私はエネルギー体として感じることはあるが、人の形をとったところを見たことはない。
 
その神霊のことを別の方は「いつも出てくる白い光」と言うし、また別の方は「紫の光」と言う。
神霊がどのような形で出てきてくれるかは人によって違う。
もちろん、何も見せてくれないこともある。
ヒーリング中に神霊を感じられる人はまさにそれは恩恵というべきものでその人の善行(グッドカルマ)のお陰であろう。
【2011年8月7日】

神の芳香

本日のヒーリング中の体験談。
「どこからともなく芳しい香りが漂ってきました。甘いようないい香りなのですが、何と表現したら良いかわかりません。その香りは例えようがありません。ここはいつも線香を炊いているけれどその香りとはまた違います。」

神が現れるときの方法は色々あるが、芳香が漂ってくるというのもその一つである。
神や天使は良い香りがすることがある。
本当に神とのパイプが太くなったヒーラー、または神と合一を果たした者は自身がそのような芳香を漂わせるという。
現に明治時代に生きた長南年恵は芳香がするのみならず、いつもお神楽がどこからともなく聞こえてきたと伝わっている。
これは一人だけが聞くのではなく、その場にいる者全員が聞くことができるというものだ。

私は今はとうていそのようなレベルではないが、いつもそのような芳香がするヒーラーのレベルになりたいと思う。
(脾臓が悪い人の体臭は甘いがそのようなものとはまた全然違う。)
甘いような・・・確かに何と表現したら良いか、例えようのない、何ともいいようのない良い香りなのだ。
もし、皆様がヒーリングを受けている最中にそのような香りがしてきたらそれは神が近くにいる証拠だと喜んでよいでしょう。
神様が貴方のために進んで現れてくれている。
神が顕現するかどうかはヒーラーサイドだけの問題ではなく、受け手の要素も大いに関係する。

同じく本日の体験談。
「深い深海からダイバーが水面に上がっていくように、私は上へ上へと上がっていきました。だんだんと光がまぶしくなってきて白い光がまばゆいばかりの世界に行きました。あれが神の世界なのでしょう。本当にありがたく言葉にできません。死ぬときもあのように上がっていくのでしょうね。」

これもクライアントさんの霊格が良いからか、神に気に入られたからか、日常生活では体験できない神秘体験を頂いている。
私の現在の力ではこのような体験を「させよう」と思ってすることはできない。
これはやはり、神が向こうから歩み寄ってくれているのであり、そうでないとこのような体験はできないといえる。

私も神に近づきたいと日々修行をしている一行者だ。
今生のいずれの日にか、私が神を人に体験させたいと思うときにそれができるようになりたいと思う。
そうして多くの方が神に引き込まれるようにして魂が魅かれ、人生観・生き方・人生哲学がガラッと大きくシフトし、霊性を大きく向上させることができたら私の今世の目的が達成できるのではないかと思う。

それには、まだまだ修行を要するのだろう。

                                【2011年8月26日】

一生懸命に教える、伝える

私(水野博友)が担当している講座はスピリチュアル・ヒーリング講座とメディテーション&ヒーリング講座の2つだ。
6月から半断食をしているため体重減を確認するのによく体重計に乗るのだが、講座がある日はなんと約1kgも体重が減っている!
だから講座が1コマでもある日は結構ヘトヘトに消耗する。
ヒーリング(施術)をする時間よりずっと消耗している感じだ。
 
受験生の頃、代々木ゼミナールの有名講師の方が授業が終わると体重が落ちているという話をしていたのをふと思い出した。
 
私は大学生の頃はずっと塾の講師をやっていたので、人に教えることには抵抗がないつもりだ。
しかし、あの頃日に何コマか講義をしてもそれ程疲れたと思わなかったはずなのだが、どうしてなのだろうか、年齢のせいだろうか。
 
受講者の方に少しでも高いレベルになってほしいと思いながらやっているので、淡々とやっているように見えるかもしれないが、あれで一応全身全霊なのだ。
魂から魂へ、つないでいくものをつないでいるのかもしれない。
 
ヒーリングクァンインでは秘伝となる有益なものをわかりやすく講座と言う形にし教授している。
余り他所にはない内容で正直貴重なものだと思う。
やろうと思えば商業的に広く告知し生徒さんを多くとることも可能だと思う。
そうすれば随分と儲かるだろう。
だが、それは私が望むやり方ではないのでそうした形ではやらない。
 
少ない人数でもよいので魂のご縁のある方に伝えていければよいと思っているし、受講生の方が実際にヒーラーとして病人の方・悩める方を救ってくれたらこれに勝る喜びはない。
私も更なる高いレベルを日々志向している。
ご縁のあった方々にも共にレベルを上げていって貰いたいと切に願っている。
 
【2011年9月11日】

護摩行の火 10月

外気功療法さいたま院のメインサイトのトップページに掲載した護摩の火は多くの方にご好評を頂きました。
ありがとうございました。
 
そこで第3弾として、10月に実施した護摩行の火を掲載します。
これも前回同様に神のエネルギーが降りていますので見ているだけで浄化になります。(炎がまるで龍のように見えます。)
 
 (活用法)
・ヒーラー、治療家、気功師の自己浄化に
・症状の改善に
治したいところを意識して気(エネルギー)を受けます。
15分以上は見つめて下さい。受ける時間が長いほど良いです。毎日見ると尚良いです。
・瞑想用に
・ご祈願に
火を見つめながら心で真剣にお願いごとをします。
 
(姿勢)
・最初に深呼吸をして心を静めます。
・座った状態で右手・左手それぞれで親指と人差し指をつけ指の輪をつくります。
その状態で手のひらを上にし、膝に置きます。
・画像の火を見つめます。
・眼を閉じて瞑想し、第3の眼(眉間)で気(エネルギー)を受け取るのもよいです。
 
 画像データをご希望の方は画像にカーソルを合わせ右クリックをすると「名前を付けて画像を保存」と出ますので、ご自分のパソコンに保存した上でご活用下さい。(私的目的可、商用での販売は不可・無償配布は可。)
 
ご活用頂ければ幸いです。
 
2011年11月23日】

人にとって最も重要なこと

私はヒーリングという仕事をとても意義ある人助けの仕事であると熱意を持って取り組んできた。
「きた」と過去形で書いているが、それは今も進行中で身体や心に痛みや苦しみを持つ人を少しでも楽にしてあげたいと、神の力を導きながら来る日も来る日もヒーリングに明け暮れている。
 
どうしたらそれで多くの人を救えるのだろうか?
より短時間で凄いヒーリングの効果を出せるようになれば、きっと今よりもっと多くの人の役に立てるだろうと思い、今の自分の力を高めるための修行を続けている。
でもそれは幾ら奮闘努力しても現在診れる人数の2倍~3倍位がせいぜいだろう。
さらに、ヒーリングを指導し優秀なヒーラーが育ち彼らが各地で活躍してくれたらもっと多くの人が、幸せになることだろう。
そのようなことばかりを考えているので、他のことを同時並行的にすることができず仕事でも家庭でもおざなりになっていることが沢山ある。
 
2・3日前のこと、ふと降りてきたのがそれよりもっと多くの人の役に立つ方法だった。
それは悟りを啓くことであった。
悟りを啓くとは人でありながら神のレベルになることだ。
神人合一の境地であり、この世がマーヤー(幻)であることを感得し輪廻の軛(くびき)から脱することである。
これは解脱を得ることでもある。
 
なぜ悟りを得ることが人の役に立つのか。
人の意識の階層には思考の場である顕在意識とその深層にある潜在意識(無意識)がある。
潜在意識は文字通り普段意識していない意識層なのであるが、それは顕在意識より大きな領域を持ち、顕在意識で私たちが思考している内容に多大な影響を持つ。
さらに潜在意識の奥には個を超えた人という種族全体の集合意識というものがある。
 
悟りを得る聖者が一人生まれるとその集合意識のレベルというものが上がる。
集合意識が変わっていき、それに連動するように個の意識である潜在意識、そして顕在意識が変わる。
 
一般大衆の意識を変えようとすると、普通はマスコミやインターネットなどの多くの人が目にし耳にする媒体の力を借りながらその訴えるべきことを主張し感化していくという方法をとる以外にないが、悟りを得る人が出現すると人の集合意識が影響を受け向上していくことになる。
人びとのネガティブな感情、怒りや憎しみ・不安や不満、嫉妬、恐れなどは知らず知らずの内に私たちの思考を支配しているが、そのようなものが思考に昇らなくなってくる。
多くの人のエゴ・執着が薄れていき世の中の無用な争いやトラブルが少なくなっていく。
人の感情が変われば行動も変わるので、それが家庭から社会に波及しより平和で穏やかな愛に満ちた人間社会ができていく。
 
悟りを得た人の意識のパワーはそうでない一般人のパワーの何万倍に相当する。
さらにアバターと呼ばれる神の化身のレベルになると普通の人の7000万人分のパワーを持つという。
幾何学的に強力なパワーを持つことができ、その力によって人の目に触れない聖者は瞑想の深みの中で世の人の意識を導いている。
一介の凡人である私のような者がこのようなことを考え、こうして寄稿しているのはこれもきっと無名の聖者やこの世と違う次元にいるアセンデッドマスター達のお蔭であろう。
15年前には一般の会社に勤め、同僚や取引先のことなど微塵も思いやることなく自分の生き残りのために修羅のようなドロドロとした毎日を送っていた人間にしてこのような考えを持つように至るのだ。
これは自力で至ったというより、こうした見えない力のお導きによってなされたものと思う。
思えば実にありがたく感涙に耐えない。
 
とはいえ、悟りを得るというのはそれを成し遂げた者が周りにいないように簡単なものではない。
それは法という特殊なテクノロジーが必要となるという。
法は人の目に触れるところにはない、本やインターネットなどを幾ら捜したとしても出てこないだろう。
人知れず極々一部の人が累々と伝承しているものであり、自分自身の意識レベルが向上しそれに相応しい段階まで来ると神のお導きで自然と巡り合うのではないかと思う。
悟りに達するのは容易ではないであろうが、それを成し遂げるだけの価値はそこにあると今回のインスピレーションで分かった。
 
ヒーリングという現在の仕事も意義があると思うが、ヒーリングによって痛みや苦しみが癒されたとしても、クライアントはまた違った問題と遭遇すれば別種の悩みや苦しみにとらわれることになる。
それはそれで学びの課程という一面があろうが、意識のレベルを引き上げてあげることができれば労することなく容易に解決の糸口が見つかることだろう。
または、その問題そのものは不要ということになりそれが現出することもなくなるかもしれない。
人を救うためのより根本的アプローチとはその人の意識レベルを上げるよう導くことだ。
 
今の仕事は生涯の仕事と思っているがもし辞める時が来るとしたら、自分が悟り(サマディー)に達したときだろう。
その時には多くの人が自分と同じ境地に達することができるよう人知れずどこかで祈り続けているに違いない。
 
【2012年1月24日】

秩父山中にニホンオオカミはいる!?

18日(日)、NHK教育テレビのETV特集「見狼記~神獣ニホンオオカミ」でそのように報道されていた。
久しぶりに見ていてワクワクした。
NHKにも面白い番組を作る人がいるものだ。
 
オオカミは1905年に奈良にいたのが最後の一頭と言われているが、今だ埼玉の秩父山中では極々稀にオオカミを見る人がいる。
この番組は15年程前に山で偶然オオカミと出会った八木さんを通して描かれていた。
八木さんはこの時遭遇したオオカミを写真に収めている。
見ると「なるほど、これは犬ではないなぁ」と思わせるものであった。
しかし、厳密にはオオカミと犬は外見から識別するのは難しく、頭蓋骨の上顎の形態で判断するしかないようだ。
でも、八木さんが撮影したものは私には日頃目にする犬と同じ生き物には見えなかった。
 
秩父を中心にオオカミ信仰が今も続いている。
三峯神社、釜山神社ではオオカミを神の眷属として崇拝している。
オオカミは大口真神と言われているそうだ。
釜山神社の奥の院は山の奥深くであるが、釜山神社の宮司さんはお炊きあげとして月に1回人が踏み入れぬその奥の院に米櫃(こめびつ)を持ってオオカミのために納めに行く。
1か月後、その米櫃はいつも空になっているとか、米櫃にオオカミの牙の跡がついているとか。
まったく不思議な話だ。
ところで、オオカミは米を食べるのだろうか?
食肉目というからふつうは肉を食べると思うのだが…
神様は日本でもインドでもお米が大好きで人は米を捧げる。
オオカミは神獣だから米櫃が空になるのだろうか?
 
オオカミは神の眷属(お使い)として祀られており、狐憑きなどの憑き物落としにオオカミの力を使っているという。
動物霊にはより強い動物の力を持って制するということだ。
オオカミは魔除け、盗難や火難除けにも霊験があるとされ「御眷属」のお札を求める人は多いという。
 
秩父地域に住む人はオオカミを神の使いとして崇拝しているが、一方その力を畏怖している。
近寄って良いものとそうでないものを先祖代々伝えてきており、それを肌で分かっている。
しかし、現代の都会に生きる多くの者は、神の存在自体を信じないものも多いし、またそれを畏れ敬うこともない。
彼らの多くが将来の展望が見えない不安を抱え心が彷徨っているのは、見えない力が存在し、それが私たちに厳然と大きな影響力を持つことをわかっていないからではないだろうか。
日本人の誰もが知っていた神や大いなるものに対する畏れと敬意、これを忘れ心が空虚になった人々の群れがこの殺伐とした現代社会というべきか。
 
神は厚く信仰する者に慈悲深い一面を見せる一方、荒ぶる神という表現があるように憤怒と破壊の恐ろしい一面も併せ持つ。
人々が神を忘れ去った時代をカリユガの時代といい、現代が今まさにカリユガの時代なのである。
末法の時代であり、仏の教えや法も廃れ、人心は荒廃する。
そのような時代(=つまり今の時代)神は人間に対して大いに怒っているという。
2012年には神の鉄槌が下されるのではないかと巷で喧々されているが、今のままの状態で神への畏れを知らず、エゴを押し通す生き方をしていたらおそらくは免れないだろうと思う。
 
本当にニホンオオカミは極僅かながらまだ生きながらえているのだろうか?
何人かの証言者が番組には出てきたから実際そうなのかもしれない。
または、「神獣」というのだから、普段は姿が見えないのだがある人の前には時として姿を見せる、そのような神霊なのかもしれない。
 
ある男性の目撃者は山の中で一匹のオオカミと向かい合った時、ガクガク震えが来て恐ろしくて仕方がなかったという。
オオカミは肩高が60㎝位で日本の中型犬位である。
山で仮に野犬と遭遇して、そのように震えが止まらなくなるだろうか?
彼が何か普通の動物にはない恐ろしいものを感じ取ったと思うのは邪推だろうか?
オオカミはその後まるでその人がまるでいないかのようにすぐ脇を悠然と通過し藪の中に消えていったという。
これなども野犬ではそうはならないのではないかと思うのだ。
 
さて、先述の八木さん、彼は山岳部出身で山を得意としているがその彼をして15年間とり憑かれたように秩父連山でオオカミを追い求めそれから一度も遭遇していない。
オオカミの通り道と思われるところに赤外線カメラを設置し動く生き物を撮影しているが、猿・鹿・熊・猪などはカメラに収まるものの、オオカミはこれまた一度も収められていない。
【2012年2月23日】

私が歓迎するお客様

飲食店などでは、あるお客様が来るとその後ドッと客足が増えるという現象がある。
決まってそのお客さんが来るとその後店内が満席になったりするのだ。
不思議であるが、そのような人はたまにいるのだ。
飲食店のオーナーはそのようなお客様は注文しなくてもいいから、お水だけでも飲んで行って欲しいと思うらしい。
 
私の家内もそのような人間の一人だ。
外食しようと店に入ると、その後の店が急に混雑になる。
家内は「私のお陰だ」としたり顔で言うのが常だ。
だったら当サロンにも入り浸っていればお客様が増えるだろうに、用事がなければ一向に現れない。
家内は売上よりも自分の自由を好むのだろう。
 
さて、私にも是非にでも来てほしいお客様というのがある。
何だかわかりますか?
 
えっ、お金を持っているお客様かって?
 
いえ、違います。
 
私が歓迎するのは神に愛されているお客様だ。
神に愛されているというか、ご加護が厚いというか、見守られているというか、まぁそのようなお客様は大歓迎である。
基本的に私はすべてのお客様は神が連れて来られていると考えているが、そのお客様の中にとりわけ神に愛されている人がいる。
 
どうしたら神に愛されているかがわかるかというと、それはもう向かい合った瞬間にわかる。
その人のためのエネルギーが神からドッと降りてくるからだ。
直接そのお客様に降りるものと思うかもしれないが、私のような媒介者を通して降りてくる。
私自身と店内のエネルギーは一変し、神の温かいエネルギーに満たされるのがわかり何とも心地よい。
私のヒーリングは自分自身の力を使うというよりも神の力を降ろしそれを受け手に導くというスピリチュアル・ヒーリングという方法を採っているので、ヒーリングの際にこの人にはたくさん気を送ろうとかそのような操作は基本的になく、コントロールはするものの気(エネルギー)の流れに身を委ねているだけなのである。
このクライアントにはもっと気(エネルギー)を送ろうと思っても、その人にとって今必要でなければなかなかエネルギーが入って来ないという逆のパターンもある。
 
神に愛されている人には大きなエネルギーが動く。
私もヒーリングをしていて、「あぁ、凄いなぁ」と感じ入ることもある。
またそのようなエネルギーが自分自身を通ると自分も浄化されとても身が軽くなり気持ちが良くなる。
私の身体に神のエネルギーが充溢するから、その人の次の順番のクライアントはそのおこぼれに与ることができ、たくさんのエネルギーを受けることができる。
 
先日、初見のクライアントさん(女性)が私と向かい合った途端に涙がポロポロとこぼれ出した。
当の本人は「なぜ泣いているのかわからない。」と言っていた。
なぜ彼女の目から涙がこぼれ落ちたか、それは神のエネルギーがドッと降りてきてその場を満たしたからだ。
私がクライアントに気を送ろうとしてやったものではない。
自然にエネルギーがそう動いたのだ。
神のエネルギーに触れ、魂が喜んだのだろう、それで浄化の涙がポロポロとこぼれ出した。
 
神に愛されている人は今世や過去世で信仰が厚かったか、今世で人のために尽くすような生き方をしてきたか、そのいずれかではないだろうか。
 
自分のことばかり考えているようなエゴが強い人は神からの距離が遠い人と言える。
そのような人はこの世間の荒波を嫌という程体験し、もうホント懲り懲りと心の底から助けを求める段階に到達しないと神に心が向くことはないだろう。
 
今神に愛されている人は今世か過去世でそのような修羅場を経験し、それで神に心が向いたのに違いない。
最初から神への信仰が厚い人はそう多くはないように思う。
 
人はそのような段階を踏んで神に目が向き、そして更に信仰を持つようになる。
 
信仰が厚い者は更に神との距離を縮めていくべく、霊性修行の道に入る。
そして幾世もの人生で修行を行い、いずれは悟りに到達する。
死後、輪廻転生の軛(くびき)を逃れたものは、あちらの世界で更に向上し自分が神になっていく。
これが本当の魂レベルの人間の進化であり、私たちは皆その途上にある。
神の分魂を宿した私たちは最後には大いなるもの(神)のところへ帰っていく。
 
それは、森に落ちた一滴の雨粒が長い旅を経て海に合一するに等しい。
 
2012年4月15日】

ドネーション(お布施)

ドネーションとはお布施という。
また日本ではご喜捨ともいう。
喜んで捨てる、人様のお役に立つよう捧げるということだ。
これをすると神が喜ぶ。
しかし、人は他人に何かの形で貢献した場合見返りを求めてしまうのが常である、そうあってはいけない。
神がお喜びになるのは見返りを求めずに行うことだ。
従って同じ行為であってもその動機や心構えで結果が大きく分かれる。
 
お布施には大きく3つの種類がある。
 財施
法施
無畏施
 
財施とは、物質的に困窮にある人に金銭的な奉仕をすることである。
法施とは、仏法を説き困っている人を助けてあげることである。
無畏施とは、恐怖に怯えている人の恐怖心を取り除き安心感を与えることである。
 
神に捧げるものはお金だけではなく、私たちの行う行為でも良いのだ。
それでも金銭的な布施と同等の価値が生まれてくる。
神にお布施をするといっても神が実際に紙幣を欲しがっている訳ではない。
神は財施をする人のその気持ち、感謝のエネルギーを感じ取っているのだ。
だから財施以外の方法でも神に奉仕することができるというのはもっともなことだ。
 
更に仏教では無財の七施という考えがある。
これは金銭的な布施ができない人でもすることができる布施のことである。
  眼施(がんせ)
慈しみや優しさを持った眼差しで人に接する、それにより人を癒す
和顔悦色施(わげんえつしきせ)
笑顔や微笑みで人に接する、それにより人を癒す
言辞施(ごんじせ)
優しい言葉、思いやりのある言葉で人に接する、それにより人を癒す
身施(しんせ)
人に対して敬意や礼儀を持ち接する、行動や身体で人に尽くす
心施(しんせ)
思いやり・心配りを持ち人に接する
牀座施(しょうざせ)
譲り合う気持ちを持ち人に接する
房舎施(ぼうしゃせ)
訪ねて来た人に気持ち良く接する
 
いずれの布施の形でもそれをどのような心で行うかが重要だ。
他人の中に神を見、その神に尽くすという気持ちで布施を行うと良い。
それはやがてまた違った形で自分自身に還元される、または子孫が受け取ることになる。
 
インド人はこのような考え方が習慣として血肉化しており、布施の金額が日本と比べ非常に大きい。
信心がある家庭では給料の1か月分位を平気で布施する。
そこには神への絶対的な信心と日々の感謝の思いが含まれている。
 
さて、今日、うつ病で通ってきているクライアントさんがこう言っていた。
「先日、神社にふと足が向いたのですが、そこで会った神主さんと話がはずみ、『もう、大丈夫だよ。』とにっこり微笑み言われました。その一言にものすごく安心しました。」
「あれは、まさしく笑施(がんせ=和顔悦色施〔わげんえつしきせ〕のこと)ですね。それから私も職場で人に何ができるかを考えるようになりました。」
 
うつ病は意識が自分に向く病である。
エゴが肥大化し、自分が大事という意識ばかりになるのである。
しかし、このクライアントさんは自分のことばかりではなく、周りに何ができるか考えることができるようになっている。
うつ病は峠を越え収束を迎えている。
もう大丈夫、心配は不要である。
 
この神主さんは日頃から神に奉仕するという布施の心ができているのであろう。
言葉で人を動かし、人を癒すのを説法力という。
これも一種の法力である。
この説法力があるヒーラーは力のある癒し手だと私は思う。
 
【2012年6月11日】
 
〔 参考文献 〕
池口恵観 「苦しみはどこから生まれるのか」(角川書店)

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