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 2013年5月 バリ島修行記


バリ寺院 
 
帰国して約1週間が経ちました。
今回も無事行を全うできたことは、神のお陰であり、また私を支えて下さった方々のお陰と深く感謝しています。
 
修行から帰ってきてお客様とお会いすると「今回の修行も大変だったのですか?」と心配して聞いて下さる方がたくさんいました。
私は幸せ者と思います。
 
確かに2月に行った修行はかなりきついものであり、中でもカルマ落としの行では余りの苦痛で失神しそうになりました。
その行は今回のプログラムでも組み込まれていて、またあの苦痛を受けなければならないのかと気が進まない思いでした。
その行はカルマやネガティブなエネルギーが多い程苦痛を受けます。
カルマを多く持つ人もいれば、少ない人もいます。
カルマには個人のカルマ(現世のものと過去世のもの)、家系のカルマ、もっと大きな集団(日本人・人類等)のカルマなど厳密にはいろいろあると思います。
私は2月の段階ではかなりカルマがあったのでしょう、開始早々から激烈な苦痛に襲われ10分もした頃には顔面が蒼白になり失神寸前になっていました。
師が止めてくれたお陰で失神せずに済みましたが、もう二度と嫌だと思ったものです。
 
しかし、カルマというのはバランスをもたらすものであるのでいずれ自分自身がどのような形であれ直面しなければならないものです。
カルマとは仏教では「業」といい、また「日月神示」では「メグリ」といっています。
「メグリ」を落とさねばならないと「日月神示」では全編に渡ってくどい程言われています。
なぜなら自分自身の意識は外部の環境と呼応しており、個々の意識そのものがそのまま世界の在り方につながるからです。
 ※以下枠内の引用は『完訳 日月神示』(ヒカルランド/中矢伸一)
「世界がそなたにうつっているのぞ。世界見て己の心早う改心致されよ。」(黄金の巻第七十一帖)

「内にあるもの変えれば外からうつるもの変わって来るぞ。内が外へ、外が内へ響くのぢゃ。」(黄金の巻第九十九帖)
 
 
このように自分に起こることというのは自分の意識と連動していることがわかります。
従って自分に起こる様々な不幸や災厄の原因は自分がそれを引き起こすカルマ(=エネルギー)を持っているからであり、人のせいや社会のせいにはなりません。
例えば東日本大震災の様な巨大災害であってもその究極的な原因というのは私たち個々の意識にあるのであって、意識が高い次元(≒世界)であればそれが起こっていないということもあり得るのです。
私たちは視覚・聴覚・嗅覚・触覚などの感覚を通して感知する現実世界(仮想現実ともマトリックスとも言われます)の構成要素でもあると普通は認識しますが、同時にそのクリエイターでもあります。
 
ですので修行者は何のために修行をしているかというと一つには自分自身の意識を高めていくためであり、もう一つには世界平和のためであります。
 
カルマ(めぐり)について

「めぐりと申すのは自分がしたことが自分にめぐって来ることであるぞ。めぐりは自分でつくるのであるぞ。」(黄金の巻第七十七帖)
 
 
「いくら信仰しても借銭なくなるまでは苦しまねばならん。途中でへこたれんように、生命がけで信仰せねば借銭なし難しいぞ。」(黄金の巻第八十帖)
※借銭とはめぐり、カルマのこと
 
 
「損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってめぐり取って戴くのぞ。めぐりなくなれば日本晴れぞ。今がその借銭済ましぞ。世界のめぐり大きいぞ。」(黄金の巻第八十三帖)
 
 
「その人民にメグリなくしてもメグリ負うことあるぞ。人類のメグリは人類の誰かが負わねばならん。一家のメグリは一家の誰かが負わねばならん。果たさねばならん。善人が苦しむ一つの原因であるぞ。神の大きな恵みであり試練であるぞ。わかりたか。」(春の巻第二十四帖)
 
 
「むやみに腹が立ったり、悲しくなったり、悔しくなったりするのは、まだめぐりあるからぢゃ。めぐりの霊界との因縁が切れて居らぬからぢゃ。」(春の巻第二十六帖)

 
 
 
バリ島でカルマ落としの行の2回目を敢行しました。
何となく今回は前回のようにならないのではないかという思いがありました。
100才を超える老聖者がそのカルマ落としの行をしてくれます。
この聖者は100才を超えてまだかくしゃくとしており、痩身でありますが、その聖者は神とつながっているので軽く触れられただけでカルマの分量により激烈な痛みを受けます。
 
私の前の順番であった兄弟弟子は悶絶する程の苦痛を受けており、寺院の外にいてもその叫び声が聞こえていました。
その方は色々なものを背負っているのかもしれません。
見ているだけで辛くなり、涙が出そうになります。
 
順番が来なければいいなと弱気の自分が顔を覗かせましたが、順番が回ってきました。
もう逃げることはできないので「来るなら来い」と肚を決め、私は身体を委ねました。
「さぁ、来るぞ!」と緊張しましたが、しかし、前回受けた様な激烈な痛みは全然伝わって来ません。
「あれあれ、どうなったのだろう」という感じでした。
老聖者は私の身体のいくつかのポイントを触りましたが、ほとんど反応がなかったので、早期に終了になってしまいました。
前回の2月の行から今回まで時間はわずかですが、浄化に関わる行を幾つもこなして来たことが効を奏したのでしょうか。
師や修行仲間は私が失神するのではと期待(?)していましたから、これにはびっくりしており、師からは「これでやってきたことは間違いではなかったな。」と言われました。
 
今回はこのカルマ落としの行の他にも、様々な浄化の行を行いました。
大きな力を得るためにはネガティブなものがあると妨げになるのです。
今回の一連のプログラムで、まだまだではあるものの、ある程度浄化が進んでいることが実感されました。
 
バリの海 
この日は趣向を変えて海辺で浄化の行や様々な行を行いました。
沖縄の様なエメラルドグリーンの海を想像していましたが、
波の荒さや海の色から日本海の様な印象でした。
 
 
またユニークなところではバリの山中であるにも関わらず日本の神様とつながる行を行い、私は大きな力を感じることができました。
これから日本の神様とのご縁ができていくのでしょうか?
インドネシアのバリ島という日本から遠く離れた地で、何でこんな遠くまで来なければならないのかとしんどい思いをしていますが、神が導くことには人智を超える意味があると思います。
修行にはお金もかかる、時間もかかる、仕事も休まなければならない、お客様にもご迷惑をおかけしてしまう、家族にも申し訳ないと本当に大変なことです。
そんなことをしなければいけないのかと思うことも時としてありますが、それをやればやっただけの進歩があり、神はやはり見て下さっているのだと感謝の思いが溢れます。
 
わざわざ遠い所へお詣りせんでも、自分の家に祀ってあるのぢゃから、それを拝めば同じことぢゃ。それでよいのぢゃと理屈申しているが、格の上の所へ求めて行くのが仁義、礼儀と申すもの。(黒鉄の巻第七帖)
 
遠い聖地に遥々行くのは、その場の高い気(エネルギー)を受けて修行が進むというメリットがあります。
神ともつながりやすくなります。
苦労しているところを神は見てくれているのだと思います。
 
また、私はベジタリアンで肉魚はめったに摂りませんが、今回バリ島の聖者から肉類OKの身体に変えてもらいました。
肉類OKとは、普通は肉類を食べればその殺され食べられたものの怨みや怒りの念を受ける(特に四つ足の動物の場合)ので人間の霊性に影響が生じるのですが、肉を食べてもカルマを積まない様になったということです。
こちらから注文した訳ではないので、最初「何で?」という思いでしたが、その時は「またラーメンが食べられる!」と歓喜したものです。
その時は肉を食べて体力・パワーをつけることが大切なのかなと考えていました。
帰国して約1週間が経ち、未だラーメンを食べていないのですが、今になってこれは日本にいよいよ食糧危機が来るその布石であるのかもしれないと思うようになりました。
「日月神示」にはその日に食べるものに窮する厳しい食糧難の時代が来ることが予見されています。
おそらく巨大な災害が起こりその後に深刻な食料難に襲われるという筋書きであると思うのですが、それがいよいよ近くなっており野菜・穀物や麺類がほとんどなくなった時に肉を食べざるを得ない状況になるからなのかとその行の意味を深読みしているところです。
肉類OKになっても一度唐揚げの味を堪能してからは、結局またいつものように肉魚なしの生活になっています。
 
今回も振り返ってみれば色々な法を頂きましたが、それが開花するまでにはまだまだ時間が必要です。
これまでやってきたことが間違いではなかったと実感できたのは一つの大きな収穫でありました。
それを土台に更なる高みへ行くために、これからも行を重ねていく所存です。 
【2013年5月12日】
 

 

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